日比谷カレッジ「情報化時代に考えたい漢字の話」聴講記録
日比谷図書文化館にて催された「情報化時代に考えたい漢字の話」を聴講したので、文字起こしをします。 内容としては大きく三つに分かれており、 - 常用漢字表とは - 平成22年の改訂はどのようにして決まったのか - 常用漢字表の字体・字形に関する指針 でありました。特に「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について|文化庁」については2月29日に文化庁が公開したばかりの指針であり、非常にタイムリーなお話です。
講師は文化庁国語課の武田康宏さんです。常用漢字表や今回の指針の策定にも携っている方で、日本の国語政策に関る官僚のお話を聞けた貴重な機会でした。
この文字起こしは当日のレジュメと講師の発言を概ね時系列順に提示しつつ、私の補足や意見を追記する形で行きます。
講師の発言やレジュメの要約は、文章の前にバレットをつけてリスト形式にしています。
常用漢字表とは
- 漢字の数はどれ位あるか?
- Unicode:約10万字
- 中華字海:約8万5000字
- 諸橋大漢和:約5万字
- JISコード:約1万字
- 一般的な中型の漢和辞典は一万数千字が収録されている。
- 常用漢字表は社会で共有すべき漢字の範囲を示したもの。
- 高校を卒業すれば、常用漢字2136字を読むことができ、1006字の学習漢字とその他の主な漢字を書くことが(建前として)できる。
漢字の制限
- 昭和56年までは当用漢字だった
「この表にない漢字は別の言葉に変えるか、仮名書きする」が今日でも見られる「交ぜ書き」(語彙を語い、破綻を破たんと書く等、熟語の一部を仮名書きにすること)の原因となるわけです。
漢字全廃もありえた?
- 昭和41年までは、日本語を漢字仮名交じり文とするかは定かではなかった
- ローマ字化や漢字の全廃もありえた。
- 当時の国語審議会には、その様に主張する国語学者が普通に居た。
- 時の文部大臣が「日本語を漢字仮名交じり文とする」と決めたので、制限から目安に移行していった。
昭和56年以降は常用漢字表
- 漢字使用の目安
- 各種専門分野や個々人の表示にまで及ぼそうとするするものではない
- 固有名詞を対象とするものではない
途中講師の方が「常用漢字表を見たことがある人はどれくらいか」の質問で全体の3分の1が手を上げました。結構な数値なのではないでしょうか。多くの人は「この漢字は常用漢字だ、これは表外漢字だ」と意識して文章を書くことはほとんどないでしょう。
目安と言いつつも、役所の文書は常用漢字でない漢字を使用するのは避けますし、新聞社もその傾向が強いです。
常用漢字が占める割合
常用漢字表はどう決めたか
- 平成22年の改訂は「漢字は『書くもの』から『打つもの』になった」ことを踏まえている。
- 196字を追加、5字を削除、合計2136字になった。
漢字使用数の頻度調査
- 先年の「漢字出現頻度数調査」に加えて、新聞やウェブでの漢字の出現頻度を調査した。
- 新聞の紙面
- 朝日新聞
- 読売新聞
- ウェブのデータ
- データA(情報フィルタリング処置済みウェブサイト)
- データB(一般向け掲示板サイト)
論調は正反対でも……
- それぞれの二大紙では漢字の出現頻度がよく一致した
- 報道しているものが一緒のためか
論調は正反対の両紙ですが、同じ性質のメディアである以上、実務的なところは収斂していくのでしょう。
ウェブの漢字は今と感情を表す
- ウェブでの漢字は「今」や「笑」や「好」などの漢字が多かった。
- ウェブはまさに「今」と「感情」を記録するメディアであることが窺えた。
データBは使えなかった
- 「蠶」(蚕の旧字体)が31位の頻度数。
- 印刷会社からのデータでは全く出現しない。
- 「欝」の頻度も196位。
このアスキーアートはリングのスチール写真が元ネタらしいというところまで突き止めていた様子。 「データBの出所はわかる方はわかるでしょう」と明言されませんでしたが、「2ちゃんねる」ですね。
造語力も追加基準の一つ
- その漢字が熟語を構成するのにどれくらい使われるかも基準にした。
- ある漢字に対して、例えば「○藤△」と前後の文字を含めて3文字を列挙して調査
- 「藤」は人名の使用が専らだから追加されないと思ったが、人名以外の使用頻度も多かった。
- その漢字と前後を含めた文字を抽出するだけでも、案外漢字の使われ方がわかったのでびっくりした。
このような切り取りだけでも文脈が少なからずわかるとは意外でした。
交ぜ書きの解消
- 潰瘍、破綻、哺乳類……
- 語彙、肥沃……
- 使用頻度が低くとも交ぜ書きを解消させるために追加した字種もある。
字体の選定
- これは審議員の間でも丁々発止になった。
- 字種毎に最も頻度高く使用されている字体を採用
- 国語政策としての一貫性を維持
- JIS規格との整合性を維持
いわゆる康煕字典体とは
- 康熙字典は、18世紀初めに清朝で編纂された字典
- その字典で掲げられた字体が、明朝体の活字設計の基準に
- 今我々が見る部首の分類もこれに準拠
- いわゆる旧字体はこれに相当する
- 印刷文字として圧倒的に使われていた
よく誤解している方が居ますが、戦前でも手書きの漢字は、今日我々がよく知っている新字体(略字体)が広く使われていました。時代は少し上りますが夏目漱石の直筆原稿のコピーを見ると、略字や草書が当たり前に使われています。印刷所はそのような原稿を見て、活字を組んでいたわけです。
- 昭和委21年の当用漢字告示で字体の整理が行われた
- 当用漢字表の字体は、簡略化した字体に寄せた
- 相当思い切ったことをした
「いわゆる康煕字典体が印刷文字として圧倒的に使われていた」状況下における「字体整理」を「思い切ったことをした」と言い切りました。国語政策に携わっている現役の官僚の方から、この発言が聞けたのは意外でした。
点一つ、点二つのしにょう/しょくへん/しめすへん
字体の話です。ここからの下りは、この話を初めて聞く方には相当重いでしょう。ここの下りは講師も駆け足で申し訳ないと詫びた程です。
尚、楷書ではしんにょうは点は一つで構いません。たまにパソコンやスマートフォンで打ち出された漢字をそのまま手書きしたのでしょう、しんにょうが二点で書かれた漢字を見ますが妥当ではありません。
「常用漢字表の字体・字形に関する指針」とも関連しますが、印刷書体の字体と筆写書体の字体とが一致するは限りません。
平成12年まで
【平成12年まで(当日の資料をもとに作成)】
平成12年から22年まで
【平成12年~22年まで(当日の資料をもとに作成)】
平成22年から(常用漢字表の改定)
- 「遡遜謎」を常用漢字表に登録したい。字体をどうする。手書きの一点しんにょうに寄せるか?
- ただ、情報機器向けの漢字は先の改訂でいわゆる康熙字典体に戻した。
- もう一度「手書きに寄せた字体」にするわけにもいかない。
- 常用漢字表には「いわゆる康熙字典体」で追加した。
【平成12年~22年まで(当日の資料をもとに作成)】
「社会における漢字使用」と「漢字表」との相互フィードバック
- 現行の常用漢字表は「社会における漢字使用」をほぼカバーしている
- 「制限をかけてきたのだから、ほぼカバーしているのは当たり前だ」と批判もありますが、それもあるだろうと思います。
この批判を認める発言が、現役官僚の口から聞けるとは思いませんでした。
常用漢字表の字体・字形に関する指針
ここからいよいよ適時な話になってきます。
起きている問題①:手書き文字と印刷文字の混同
- 「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」の差が理解されていない。
- テレビで、国語の先生が「北」を印刷文字に寄せて書いたのを見たことがある。
【左:明朝体、右:教科書体】
「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」との差をちゃんと認識して教壇に立つべき人が理解できていないことが、今回の指針を作成するに至った一因なのかもしれません。
起きている問題②:微細な字形の差への拘泥
- 文字の細部に必要以上に注意が向けられている。
- 「木」は「とめる」か「はねる」か
- それなりに勉強をしないと入れない大学で150人程度の学生を前に今回と同じような話をした。
- 「木」をとめるかはねるかを訊いて、どちらでも良いと認識していたのは僅かに1名だけだった。
- 本来はどちらでも良い。教科書では「木」はとめることがほとんどが、本来の楷書としてははねる方が妥当(筆勢の都合)。
- 学校の勉強をすればするほど、漢字の字形を厳密に判断する傾向にあるかもしれない。
落とすための試験をやる以上、採点する側は細かいところで差をつけないといけない場面が多くなります。入試を突破するために、採点される側も最適化してきた結果と考えられます。
公的な見解としては……
- 今回の指針の内容は常用漢字表が告示されたときから言ってきた。
- ただ、説明や周知が不足している。そのために今回の指針を作った。
手書き文字と印刷文字の表し方には、習慣の違いがあり、一方だけが正しいのではない。
漢字の細部の形(=字形)に違いがあっても、その漢字が有すべき骨組み(=字体)が認められれば、誤っているとは見なされない。
印刷文字と手書き文字の違い
【当日のレジュメより引用】
手書き文字には多様性がある
- どちらの字形でも正解です。
- 横棒の長短、はねるかとめるか、斜めに書くか真っ直ぐ書くか
【当日のレジュメより引用】
もちろん多様性があるからと言って乱暴に書いていいわけではありません。乱暴に書いて「土」と「士」、「矢」と「失」との区別がつかないようでは困ります。 字形の僅かな差で異なる漢字とされる場合は丁寧に書く必要があります。しかし、そうでない場面でとめやはねに拘るのが不毛だということになります。 これの議論については、文化庁指針(漢字のとめ・はねなど)への誤解と早とちり① - マチポンブログで詳細に取り上げられています。
- しかし、多様性があることが認識されていない。
学年別漢字配当表が原因か?
- 学年別漢字配当表が勘違いのもと?
- 漢字の例示字形が一種類しかない
- 教科書もそれに従い、とめやはねに関する厳密な注釈をする
- 教える側が勘違いしている!
- 学校の指導要領ではバリエーションがあることに言及しているにはしている。
漢字の字体を標準として指導することを示している。しかし、この「標準」とは、字体に対する一つの手がかりを示すものであり、これ以外を誤りとするものではない。
- 指導する側の都合として標準を示している。
- 教えられる側も使った教科書以外のことを知らない。
- 時代によって教科書体の変遷もある。このため年代ごとで字形の正誤の認識に違いが出る(「女」は突き出るか突き出ないか等)。
指導する側が標準しか知らない状況では、標準以外の答えを見せられてもバツをつけるしかできないでしょう。その状況では、教えられる側も必然的に画一的な認識をするようになります。
昭和20、30年代の教科書を見るとまだ多様性があった
- 当用漢字での明朝体を参考に、各教科書会社が教科書用の書体を作成していた。
この辺りから、各教科書の書体の比較になります。同じ漢字でも教科書ごとにバリエーション(はね、とめ、はらい)があることが示されました。
- 現行の教科書はほぼ画一的になった。
- それでも細かいところで当然違いはある。
「右」の「ナ」と「口」はくっつくか? 離すか?
- 当然どちらでも良い。
- 各教科書を開くと「くっつけるもの」がほとんど。「離すもの」もあるにはる。
- 「学校で息子が右をくっつけて書いたらバツにされたが、離しても正解では?」と実際に問合せが来たことがある。
- その息子さんはたまたま「右」を離して書く教科書を使っていた様だ。しかし、そのお子さんが右をくっつける教科書を使う学校に転校したら……
現行の教科書体は伝統的な「楷書」と比べると違うこともある
- 「困」の木の第四画ははらうか? とめるか?
- ほとんどの教科書でははらっている。
- しかし、筆写では狭いところではとめるのが良い。
個々のパーツごとで細微な字形を共通化したほうが、学習上わかりやすいと教科書会社が判断したためだと思われます。
判断が分かれるのは自然なこと
- 世論調査をしたら、 どちらの漢字の字形が正しいのかで認識が分かれた。
- 認識が分かれること自体は自然なこと。
- どちらか一方が正しい間違いだとせずに、この多様性を認めてほしい。
共通する意識
- 共通する意識として「とめ」「はね」「はらい」は大切だ。
- 必ずしも一致していない意識として、「どこ」を「どうとめるのか」「どうはねるのか」「どうはらうのか」。
- 「正しい文字とは何か?」という意識が根底にある。それに応えるべく今回の指針を作った。
手書きの漢字の指針は文化破壊ではない
- 読売新聞の報道(2015年10月)で「漢字のとめ、はねを甘く見て」と見出しを付けられて仰天した。
- 甘く見てとは言っていない。
- 文化破壊であるとの批判がたくさん来たが、むしろ多様性を認める漢字の伝統に即したもの。
扇情的な見出しを付けるメディアの報道に対する苦労がしのばれます。
講演のまとめ
質疑応答
Q:国語教師で外国人の初学者も見るが彼らは苦労している。いっそのこと活字の字形を手書きの字形に寄せないのか。
A:初学者への配慮も大事である。しかし、元からある多様性を認めるのも大事である。
これについて、講師自身も玉虫色の回答であると認めています。初学者に対しては別途配慮をすればよろしいでしょう。わざわざ国語を改造する必要はありません。
Q:2136字を読めれば困らないと言うが、覚えられない人は困っていいのか? 交ぜ書きをしない方が効率が良いと言うが、そうではない人も居るのではないか?
A:この政策が全ての人に対して正しいとは思っていない。もちろん、これで救えない人が出てくる。そういった方々には個別に配慮していきたい。
Q:平仮名について文化庁はどう考えているのか?
A:平仮名について内部検討されたことはない。平仮名の字形もバリエーションがある。例えば「き」「さ」「そ」を繋げて書くか書かないか。ただ、教えるときにはどちらかに寄せればいいと思う。
Q:(上の質問に関連して)画数についてはどう考えているのか?
A:画数は筆順も絡んでくる。ただ、筆順も絶対的なものはない。皆、必要以上に拘り過ぎている。句点の「。」の筆順はどっちなのかと問合せが来たこともあったけれども、詰めて考える必要はない。
手書き漢字の字形の指針と通ずる答えです。講師の方も述べましたが、筆順もやはり絶対的な決まりはありません。流派によって或いは国によって異なります。国によって異なる例として、日本では「右」と「左」で「ナ」の筆順は異なって教えられますが、中国では同じ筆順で教えられます。
Q:障がいの「がい」で「碍」をどうして改定常用漢字表に入れなかったのか。
A:諸々の意見の調整がつかなかった。人権に関する字は時間が経てば意味が変質する所為もある。また、仏教用語で「障碍」と「しょうげ」と読むことがあるが、これは良い意味ではない。そういったことも加味して、結局のところ国語の問題として決められなかった。
まとめ
以上、今回の講演は今まで文科省や文化庁が発信してきたことを改めて説明したものです。もちろん制定の経緯など、なかなか聞けない裏話がたくさんありました。 本講演をまとめると次のようになります。
- 漢字には多様性がある。
- 情報交換のための漢字とアイデンティティーとしての漢字の折り合いをどう付けるか。
- 手書きの漢字の指針は漢字の伝統に即したもの。文化破壊ではない。
- 細部に必要以上に拘る必要はない。
今回の講演は、漢字が多様なものであると豊富な例示付きで何度も繰り返し述べられました。ただ、このことは文化庁がこうやって指針をまとめないといけないほど、漢字の多様性やそれに対する認識が失われていることを意味します。
教育現場の実情が窺えるエピソードもたびたび紹介されましたが、肝腎の教える側が漢字の多様性を認識していない模様です。ただ、今回の指針が少しづつ教育の方面にも広がっていけば、「手書きと印刷で字形が違って当たり前」「とめ、はね、はらいに過度に拘らなくとも良い」という文化庁が目指す日本語社会になることでしょう。